ゆりかもめが帰る日 〈前編〉

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      〈前編〉

 

 

コートのポケットで携帯がぶるぶる震える。


“今どこ?”

“ホテルフジタのあたり。”


入力するために立ち止まると、
よけいに寒さがこたえる。


“もしかして川辺の道を歩いてる?”

“当たり”

“寒いだろ”

“寒い”

“バカだな”

“うん バカだよ”


やりとりはそれで終わった。

 

歩きはじめて15分で、
早月はもう後悔していた。

ここを歩いて行こうなんて、
なんで思いついたんだろう。

なのに、上の道に上がる気もせずに、
惰性なのか意地なのか、
吹きっさらしの川辺の道を上流へと歩いていた。


ゆりかもめが川面に佇んで、えさを物色している。
木の棒みたいな細い足が水にささっているのを、
見てるだけで震える。

「ねえ、寒くないの?足、冷たいでしょ。」

平気そうだ。
そりゃシベリアから来てるんだもんね。

「私は冷たいよ。」


目をあげると、すれ違うジョギンググループの人たち。
みんな鼻が赤くて息が白い。

もう上がろう・・・もう上がろう・・・
そう思いながらまた15分。


“お~い!わざわざ向かい風に向かって歩く、
そこの寒そうな女子、またの名をイイナズケ。
凍えて行き倒れる前に、
その橋の手前で階段を上がってきませんか?”


見上げると、橋の上に見覚えのあるシルエット。
腕組みをし、ちょっとだけ首をかしげて笑ってる。

あんなに背が高かっただろうか。
あんなに笑顔がまぶしかっただろうか。


小学校の時は私のほうがうんと大きかったのに、
今は見上げなきゃいけなくなった。
勉強だっていつも私がリードしてたのに、
気づくと並んでいて、その次に気づくと先にいた。


うちの祖父のアトリエに通い始めた幼稚園の時から20年が過ぎた。
大学の受験勉強中も休まなかった。
私が途中でアトリエに足を踏み入れなくなってからも、
彼はずっとそこにいた。
唯一いなかったのは、
大学の頃に世界じゅうのあちこちを旅してた1年だけ。

そして、祖父が倒れた時に一番近くにいたのも彼だった。

あっという間に逝ってしまうことになる祖父を、
祖母に寄り添って見送ってくれたのも、
葬儀の時に裏方を支えて動き回ってくれたのも彼だった。

私よりずっと、祖父の孫っぽかった。
いや、実は、祖父同士で勝手に決めた「孫の許嫁」

全然それらしいそぶりをしないくせに、
鴻は都合のいいときだけ私を「イイナズケ」呼ばわりだ。

 


“足、長いね。”

“よく言われる。”

“だろうね。”

“だから早く上がってこいよ。”

“寒すぎて動けなくなった。”

“どうしてほしい?”

“かわいそうなイイナズケを迎えに来てほしい。”

“甘えるな。”

 

・・・・あのさ、今日の私は打たれ弱いんだぞ。

 

葬儀から5日。
東京に戻る気持ちが湧かずに
ずるずると留まっている理由を探していた。


“こら、なにか返事しろ”

“私が甘えるなんてこと、盆か正月くらいの頻度だと思うよ。
この際「かわいいなぁ~」とか言って降りて来る気はないの?”

“なにが盆か正月だ。こないだ胸貸したばっかりだ。”


なんだかひどく傷ついた気分になって
手前の階段を上らずに、知らんぷりして橋の下をくぐって行った。
言うとおりになんかしないんだ。


“おい、こら!”


・・・・返信なんかしない。


“そこの寒そうな女子 梅津早月!どこ行く気だ!!”

“うるさい。ほっといて。”


急に勢いづいてぐんぐん歩き出した。

 


そんなに感傷的な気分のはずじゃなかったのに、
ふと、小さい時から“じい”と呼ぶ祖父との
思い出の場所へ足が向いてしまった今日だった。

そして、そこがあまりにも様変わりしていたことに、
思った以上にへこんでる。

とにかく寒くて、足が痛くて・・・
なのにこんな意地張って、なにやってんだろ、私。

鴻は来るだろうか。
あの階段を下りて、
この川辺の道を追いかけてくるだろうか。

背中で足音を待ちながら歩く。

 


ーーーーーー

 


あの画材屋も甘味処も、
ふたつとも姿を変えてしまうなんて、考えもしなかった。

当たり前だな。もう8年もたったんだ。
私は浦島太郎なんだから。

 

じいのお気に入りの画材屋は、
今はお客を高級志向の女性と外国人観光客に絞り込んで、
和文具とお香の店となっていた。

あんなに豊富に岩絵具が並んでいた場所には
様々な和風のポストカードやスタンプが、
おしゃれにディスプレイされていた。

ブームになる前からじいが敬愛していた若沖は
ポストカードになって、なんと20種類もあった。
驚きだ。
じいは知っていただろうか、このところの人気ぶりを。

おととし全国を巡って大盛況だった若沖展に、
じいが足を運んだのかどうかさえも、私は知らない。


膠(にかわ)やみょうばんが置かれていた棚は、
色とりどりの和紙のセットで飾られていた。

店の内装はほとんど変わっていないのに不思議だ。
あのころよりずっと賑わい、洗練されておしゃれな空気が漂っていた。

スタッフの中に、知った顔もなかった。
夢中で買い物する女性の肘に押されて場所を譲りながら、
涙が落ちそうになった。


お決まりのコースのように、画材調達の帰りに連れていかれた甘味処は、
何度その通りを行ったり来たりしてもみつからなかった。

間口が一間(いっけん)と少しの、信じられない細長さの店。
今風の店構えが続く中に、いきなり昭和な風情で目を引く小さな店。
磨き込まれた木の建具と絣(かすり)の暖簾が目印のはずだった。

近くの店で尋ねてみようかと何度も思いながら、
とうとう勇気が出なかった。


最後にじいとこのコースをたどった日を憶えている。
それは、私が勝手に決めた大学の進路を家族に伝えた翌日だった。

「早月、今日は荷物も多い。つきあってくれるか。」
そう言った。

こんな時、行きは電車で、
荷物が重くなる帰りはタクシーと決まっていた。

その日、いつもと違う重い空気に、
ただただ無言のまま画材を買い、
無言のままぜんざいを食べた。

 


タクシーに乗ってからやっと口をひらいたじいの一言は、
「いつか何か、胸に湧きあがってくるものがあったら、
ためらわず表現すればいい。
それは・・・どんな方法でもいい。
絵筆じゃなくていいんだ。」

それだけだった。

 


その世界で少しは名の知れた日本画家だったじいのもとで、
小さな時から絵筆を持っていた。

中学生の時から大人に混じって展覧会に出品していた。
なにも考えずにただ絵筆を動かしていたような気がするけど、
あのころのことはよく思い出せない。

「なんで描くのか・・・」なんて言葉が思い浮かぶ前に、
自分には毎日描くことがとても自然で当たり前のことだったのだ。

そう、夜とりあえずテレビをつけてみるみたいに、
とりあえず毎日、何かしら描いていた。


高校に入ったばかりの時、
名高い展覧会で入選してしまってから、
そんな、私にとって普通だった毎日の調子が狂い始めた。


天才って誰のこと?
英才教育って何?
七光りって・・・・誰が?


気づけば私は、流行のドラマも音楽もおしゃれも男の子も、
なにも興味がないような、
純粋培養の天才画家ということになっていた。


絵を描かなくなったのは、高1の3学期。
家を出る計画を立てたのは、高2の夏休み。
家族に話したのは高3の2学期


8年の間に、帰る度にじいは年老いていたはずなのに、
そんな当たり前のことに私は気づかなかった。
きっと自分のことに夢中だったのだろう。

じいはじいのままで、いつもそこにいて絵を描いていると、
なんでそんなに簡単に決めていられたのだろう。

そして、この1年半ほどは帰っていなかった。
気が向いたらフラッといきなり帰って、気が向かなかったら全然帰らない。
ほんとに好き勝手だった。

 

通夜の会場から家への車は二人きりだった。

「鴻・・・」

「ん?」

「いろいろありがと。」

「ん。」

「私が行っちゃったあと、鴻がいてくれてよかった。」

「俺は早月のかわりになんかなれないよ。
誰もお前のかわりなんかできない。
知ってるだろ。」

「・・・・」

「でも、自分を責めるなよな。」

「もう、責めてる。」

「・・・そりゃ、そうだな。」

「・・・・」

「先生は不死身だとでも思ってたか。」

「うん。」

「俺も・・・思ってた。」

「ありえないよ。」

「あぁ。そうだな。」

 

自宅まで、あっというまに着いてしまう距離だった。

もう少し二人でいたら、私は泣いたのだろうか。

 


翌日

火葬場で、鴻と空を見上げた。


「最近はハイテクなの? 煙も出ないんだね。」

「ほんとだな。」

「鴻・・・」

「ん?・・・」

「白兎峠に行きたい。」

「え?」

「白兎峠、連れてって。」


昔、鴻のバイクの後ろに乗って行った峠に着くと、
鴻は昔と同じように缶コーヒーを買いに行った。
そんな鴻を待ちながらいつも、
柵の上に立ち上がって夜景を眺めたっけ。

助手席でただ空を見ていると、
さっきまで身を置いていた情景が、
全部夢だったように思える。


フロントガラス越しに見えるのは、青空と遠くの山と広がる平野。
昼間に見ると、こんなに普通だ。


鴻が戻ってきて、渡そうとした缶をひっこめ、


「やっぱりあっちが先だな。」

そう言って、車の後ろに回ってハッチバックを開けた。


「何?」

「いいもの。」


見覚えのある大判の風呂敷で丁寧にくるまれていたが、
すぐに絵だとわかる。
シンプルな額縁。


「開けてみな。」

「・・・」


固まってしまう。


「開けてみな。」

「なんか・・・
これ開けると、私・・・泣く?・・」

「かもな。」

「・・・」

「怖いか。」

「・・・」

「開けろ。泣くときはこの立派な胸を貸してやるから。」

「・・・」


何なのかはすぐに想像がついた。
じいの絵だ。
たぶん4号くらい。
額縁に入ると助手席には嵩張る。


開けた。


「あっ・・」

わかってたけど、
じいの絵だ。

日本画ではなかった。


「先生、早月が棚に置いたまま残してった水彩で描いたんだ。」

「え?・・・」


じいは私を描いていた。
それが、ちょうど絵を描かなくなっった頃の私だとすぐにわかった。

庭の隅のベンチに座って、
低い生け垣の向こうに流れる川を見ている。
その背中。


私はその頃、何日も何日もそうしていたんだ。

そう、あの梅の木の下。
淡いピンクの枝の下に丸まった背中。


「タイトルは俺がつけた。」

「え?」

「題して『猫背の早春』」

「・・・はぁ?・・・」

「『青春』じゃないぞ。『早春』だ。」

「わかってるよ。」

「タイトルは?って聞いたら、そんなものはないって先生言うから、
俺が冗談で言ったら、笑って『それにしよう』って。」

「それって、いつの話?・・・」

「先生がこれ描いたのは、ほんの半年前くらいだ。」

「え?・・・」

「スケッチはあの日だけど。」

「あの日?・・・・」

「あぁ。10年前。」

「10年前・・・」

「あぁ。」

「鴻・・・」

「ん?・・」

「なんでも知ってるね。」

「あぁ。お前ばっかり見てたからな。」

「・・・・・」


そうだった。
あのころ、いつも振り向くと鴻がいたような気がする。
ちょっと心配そうに。
ちょっと怒ったふうで。

 

「梅が・・・満開だ。」

「あぁ。」

「私、寒そう。すごく猫背。」

「16のお前。
この時、僕は15だな。一瞬の年下期間。」

「年下のくせにえらそうだね。」

「半月だけだろ。
これは16の誕生日の日のお前だって。先生が。」

「あ・・・」

「朝からずっとこうしてたって。
拗ねてたんだ、お前。
おもしろいから描いてみたって。」

「・・・うん・・・憶えてる。
ものすごく寒いのに、延々と外にいた。
どっかにでかけちゃえばいいのに、
庭で拗ねてるなんてね。
子ども・・・」


「大人はみんな嫌いだ」とか言って、
誰ともしゃべらなくなっていた。

絵を描きたい気持ちがなくなってしまった自分に戸惑い、
どうしたらいいかわからなくなっていた。

 

「この日、とうとう誕生日の祝いはなかったな。」

「え?誕生日?・・・誕生日もそうしてたんだ。
そうだっけ・・・鴻、いたの?」

「ああ。このままお前、がたがた震えだして熱出したんだ。
俺、招待されてたのに、そのまま帰った。」

「わぁ・・・そうだったかも・・・」

「ケーキ、食べ損ねた。」

「鴻、甘党だよね。それはすみませんでした。」

「こんどおごってくれ。思い切り甘いもの。
それで許してやる。」

「そんなのもう時効だよ。」

「そんなこと言わずに・・・」

「んふ・・・」


それもいいかな。今すぐでも。

 

「早月、これもだ。」


鴻の手に和紙の封筒があった。


「え・・・私に?・・・」

「あぁ。
『早月に遺言だって言ってくれ。』って。
意識がなくなる前に、ちゃんと場所を教えてくれた。」

「・・・・」

手紙は短いものだった。


  早月

  迷えばいい。人は一生迷いながら生きる。
  迷った果てに行き着く場所がきっとある。
  みつかる。
  でもそれは、ばあさんになってからかもしれない。
  それまで、心に湧き上がるものに右往左往すればいい。
  でも表現することだけはやめるなよ。
  楽しく暮らせ。
           じい


だまって手紙を折り、また封筒に入れた。


「・・そっか・・・はは・・・じいらしい・・・」


大きな手が、そっと私の頭に乗せられた。
それは、泣いていいぞという合図?

一挙に零れだした涙をぬぐうこともしない私に、
無理な体勢で、ずっと胸を貸してくれた。

鴻の胸は広くて、確かに立派だった。

冬の冴え冴えとした空気がフロントガラスの向こうに広がっている。

絵をかかえる私を、鴻がかかえて時がたち、
買ってきてくれた缶コーヒーは冷めた。

 


そうなんだよ、じい。
迷ってるんだ、私。

迷ってばかり・・・

ほんとにこんなで、
いつかどこかに行き着ける?

 


鴻の胸は温かで・・・

     いい匂いがした。

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

“回れ、右!”

そういう誘いには乗らない。

“ちょっと振り返ってみろよ”

“こら、なんとか言え。”

“だからそういうのにはひっかからないから。”

“やっぱお前、甘いな。”

“もういい!”

パタッと携帯を閉じて歩き出そうとした途端に、
目の前が遮られた。

ほんとだ、甘かった。
鴻は目の前にいた。

そして今は、私をがっちりくるんでいた。

「早月・・お前、冷え冷えだな。」

「・・・・」

だからイヤなんだ。

「どした?」

鴻に会いたくなかった。

「こら・・・」

鴻に会うと、スイッチが入ったように、
勝手に涙が出てしまうから。

「白居堂に岩絵具がなかった。」

「あぁ、何年も前からだ。」

「中村屋がみつからなかった。」

「店舗ふたつ分くっつけて携帯のショップになってる。」

「・・・・」

「大丈夫、移転してまだやってる。
今から行くか?」

「いい。」

「行こうよ。」

「食べたかったわけじゃないもん。」

「そうか・・・」

コートの中はスーツだった。

「仕事の途中?」

「あぁ。出先から。
今日は直帰なんだ。」

「そっか。」

そう言いながらスーツの背中に手を回すと、
コートにすっぽり包まれて暖かい。

「だから行こうよ。なあ、意地っ張り。」

「なんだよ、冷血人間。」

「冷血人間のコートの中は、こんなに暖かくないだろ。」

「・・・それもそうだ。」

「あは、素直だ。
今、『あったかいなぁ~~~』って思ってたんだろ。」

「・・・・・」


答える代わりみたいに鼻をすすると、
鴻がコートの前をさらに深く合わせて抱きしめた。

頭の上から、小さな声に誘われる。


「なあ・・・ぜんざい食おうよ。」


「ふふ・・・」

 

コートの中に埋もれた耳にも、

一斉に飛び立つゆりかもめの羽音が聞こえた。

 


 

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