ダ・カーポ

 

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約束の時間が迫る。

あぁ・・・
気が重い。

几帳面な彼のことだから、
もうすでに譜面を見ながら準備しているかもしれない。
彼が定宿にしてるホテルに特別に準備された彼専用のスタジオ。
そこで会うというのが、気の重さを倍にしている。

全面ガラスの喫茶室のすぐ外は、ニセアカシアの並木。
すっかり葉が落ちてしまった裸の枝を眺めながら、
なかなか席を立てなかった。

そして、先週のキョウコの言葉を思い出していた。
 

「オンサムさん、ナミに言ったんだって。
大切に思っている人がいるからって。
だから君の気持ちには応えられないって。
それでナミ、訊いたらしいよ。
“それはアキさんですか?”って。
そしたら否定しなかったって。
“悪いけど言えない。君には関係ないことだから。”って、
それだけ言ったそうよ。
ねえ、それってそういうことでしょ。
白状しなさいよ。
彼からなにかアプローチがあったの?」

「ない。」

「うそ!
だいたいありえないよ。
合唱がオケと合わせる前に本番の指揮者が毎回来て練習しちゃうなんて。
合唱の練習指揮はエトウさんって決まってたんでしょ。
なのに、あんなに有名なオケの指揮者が毎回指導,
いったいどういうことだって、すごい噂になってるよ。」

「もともと合唱も好きで長くやってたからじゃない?」

「ふ~~ん。じゃあわざわざアキを伴奏者に指名したのはなんで?」

「そんなのたまたまよ。事務所に話が来たんでしょ。」

「違うね。
あのね、わざわざ事務所に訊きに行った子がいるの。
オンサムさん直々に指名だって、アキ。」


やっぱりそうだったのか・・・・


「アキ、昔なんかあったんでしょ?
もうみんな気づいちゃってるよ。
オンサムさん、正直者だよね。全然隠せないから。
練習中に何回“アキ”って呼んだかわかんないのに、
演奏に没頭しちゃって自分ではそれに気づいてないところが、
やっぱ天才ぽいところなんだよね。」

私は気のないふりをしながら、
顔が熱くなっていくことに慌てていた。

仕事仲間のキョウコに出会ったのは1年前。
彼と私のことを知らない人とつきあうのは気が楽だったのに、
今はその逆。

知ってる人は黙っていてくれる。
知らない人は残酷にどこまでも問いつめる。

「ほんとになんにもないんだからね。
いい加減なこと言いふらさないでね、お願いだから。」

「そんなに照れなくても・・・」

「そんなんじゃないのよ!!」

思わず声を荒げてしまった。
絶対に最後まで冷静でいようって
この仕事受けた時に誓ったのに。

「どうしたのよ。びっくりするじゃない。
あなたほんとに・・・
どうしたのよ。」

キョウコは私の表情に何を感じとったかしらないが、
もうそれ以来なにも言わなくなった。

誰にも触れられたくなかった、オンサムとのことは。
今はただ指揮者とピアノ伴奏者の関係でいたかった。

私は練習担当だ。
本番近くなるとオケとの合わせがはじまり、
ピアノは必要なくなる。

そしてもう会わなくてよくなる。

もう少しの辛抱だった。
彼のあのまなざしを受ける痛さも。
あの声を聞く度に3年前に引き戻される苦しさも。

もう3年経ったんだ。
ずっと前のことだ。
私の胸のなかだけにしまっておこうとしてるのに・・・
お願いだから、黙っていてほしい。
誰も私を揺さぶらないで。
ようやく慣れ始めたところなのだ。
彼なしで生きる人生に。

いや、一番揺さぶっているのは彼だ。

なんでそんなことをするのかわからない。

練習の始まりの時点ではちゃんと
「ピアノ、とまってください。」
「じゃあ、同じところからピアノ行きます。」
なのに・・・

夢中になると
「アキ、ストップ!」
「アキ、もう一度行くよ。さっきのところから。」
になってしまう。

バレバレにもほどがある。
なのに本人は演奏に没頭してるから気づかない。
最低だ・・・

曲の始めと終わりに目を見合って息を合わせるのだって、
それだけで私はとても苦しいのに。

あぁ・・・

早くこの練習期間が終わってほしい。

オンサムと出会った頃、彼はオーストリアを経て日本に留学したばかりだった。
オーストリア留学中にすでに国際的なコンクールで賞を取った。
高名な指揮者に天才だと絶賛され、ウィーンに引き留められたらしい。

それを振り払ってまで日本に来た。
充分に時の人となったそのお土産を持って本国に帰るならまだしも、
わざわざ日本に寄り道したんだ。

「最初から日本に来たかったです。」
なんてニコニコしながら言った。

“オーストリアより日本がいいなんて、ちょっとイヤミなやつ。”
なんて思いながら、

その無防備な笑顔と、
まだぎこちないアクセントがかわいなんて思ってしまった。。
そんな自分への照れ隠しか、
私は「天才は言うことが違うよね・・・」なんて
皮肉めいたことを言ってしまった。
彼はなんのことだかわからずきょとんとしていたっけ。

彼の亡くなったお母さんが日本人だと知ったのは、
それからだいぶ先のことだった。

そして今の彼は・・・

韓国に帰って音楽監督となったオケは、
過去の名声ばかりで、最近の演奏の評判がひどく落ちていた。
そしてそのオケを体質そのものから変えることにチャレンジしたらしい。
きっと大変な道のりだっただろう。
メンバーを入れ替えたりしないまま、
3年という短い期間で画期的な質的向上をもたらしたのだ。

3年目の演奏会の大成功とともに
その話題は、最近の音楽雑誌で大きく取り上げられた。

今回の来日は日本の母校の創立130年記念のコンサートのためだが、
これはさながら彼の凱旋公演のようになっていた。
チケットはさっさと完売。
練習のために毎週滞在するホテルからは、
一室をスタジオとして提供され
特別にグランドピアノが運ばれた。

そして私は練習日初日、一瞬で気づいていた。
彼がもう大変な高みへ登ってしまっていることを。

プロとして独り立ちしてから歩いて来た道が、
どんなにたくさんの試練を彼に課してきたか。

そしてそれをひとつひとつクリアしてきた彼が、
どんなに大きな成長を遂げたか。

同じ空間にいるだけで、
それはもうひしひしと、全身で感じてしまった。

毎回、彼が入って来て指揮台に立つ時の、その存在感は圧倒的だった。

ざわついていた空気がすーっと澄んでいくような不思議な感覚。
ほんの数秒でみんなの視線は彼のもとに集中し、凛とした緊張感が流れる。

一呼吸、二呼吸・・・・

静かだけど暖かなまなざしでみんなを見回す。
やがてきゅっと口角を上げて微笑み、

「こんにちわ、みなさん。
今日もよろしくお願いします。」

安定感のある穏やかなバリトンが響く。

「よろしくお願いします!」

みんなの声にも、どこかピンと張ったような気がこもる。

ピアノの位置から見る横顔も、
そのソフトな面差しは3年前と変わらなかった。

しかしステージでの立ち姿の美しさと厳しさ、そして風格のようなものは、
そのまま彼がプロとして重ねてきた時間の充実を表した。

一度だけ、彼の都合が悪く、エトウさんが練習指揮をしたことがあった。
その日、その場にいた誰もがショックを受けたはずだ。
指揮者以外の誰もが。

人の体からわき出す声は、
指揮者によってこんなにもボリュームも質も変えるのだということを、
みんなが身をもって感じてしまったんだ。

エトウさんの指揮によってそこに奏でられたものは、
オンサムのそれとはまったく違うものだった。

伴奏者の私を含めてオンサムの指揮に慣れていた集団は、
その居心地の悪さに耐えて過ごした。

何が違うのだろう・・・

オンサムの右手のタクトと
それに共鳴しながら、しかし別なものを表現するしなやかな左手。
そして、その全身から放たれるなにか。

きっとそれは、
みんなのエネルギーを誘い出す磁気のようなもの。

その磁気によって、
彼と向かい合う100人ひとりひとりのうちに眠る“音”が呼び覚され、
全身を打ち振るわせて共鳴する。

そうして思いもよらぬ豊かな音色が、
それぞれの唇からあふれ出す。

そのことに驚き、歌いながら感動し、
感動しながら歌い続ける・・・

きっと・・・

   そんなふう・・・・

ヨ・オンサムは、
自分たちにそんな体験をさせる指揮者なのだということを、
そこに立つ誰もが、この日気づいたに違いない。

あのタクトが、魔法使いの杖に見えてくる。

ある日、オンサムが言った。

「みなさんの胸の中に、神さまはいますか?」

みんなシーンとした。
彼が何を言おうとしているのかわからない。

照れたような微かな笑顔が少しうつむいた。

「練習の初回から、ひとつひとつの歌詞の意味を確かめながら今日まできました。
でも、みなさんはすでに長い合唱の経験のなかで、
ミサ曲だけでもいろいろご存じですよね。
今回は、しつこい復習だったかもしれません。」

ほんとに、何を言おうとしてるんだろう。

「初めに主に憐れみを乞い、そして主を讃え、栄光あれと叫び、
最後には平和を希求し、争いを否定し、
全ての人のもとに安らかな時が訪れることを切に願う・・・
ミサ曲というのはそんな、厳かだけど熱い祈りの歌ですよね。」

みんな真剣に聴いていた。

「みなさんには、愛する人がいますか?」

・・?!!・・・

私はいっぺんに緊張した。

「歌うとき、神様をイメージしづらかったら、
愛する人、いちばん大切な人を思ってください。
その人の愛を欲しいと思い、その人を讃え、
その人の毎日が暖かく平和で、そして幸福であるように・・・
そして、その人の平和と幸福を守るためなら私は戦う・・・
そんな強い思いを持って歌いたいんです。
200年近く前に、命がけでこの曲を作った作曲家も、
「人類の平和を」と歌いながら、
同時に、たった一人の大切な人を思い浮かべていたのかもしれません。
僕はこの曲を感じれば感じるほど、そんな気がしてきているのです。」

みな、水を打ったように静かだった。

彼はフッと白い歯を見せて、

「それだけです。
そんなに静かになられると、なんだか照れます。
僕の日本語、うまくないでしょ。
聞き取れますか?
以前日本にいた頃、友人によく言われました。
“ヘタッピだなぁ”って。
ふふ・・・」

・・・!!・・・

みんなの表情が緩んで、空気が揺れてほぐれたかもしれない。
でも、わからない。
顔を上げられなかったから。

「では、始めましょう。」

私は・・・・
涙をこらえた。

涙をこらえて、オンサムのいつもより長い、目だけの合図を受けた。
鍵盤に乗る指が震えていた。


どうして今、私はここにいるんだろう・・・

涙をこぼしそうになる自分を
認めたくはなかった。

あの日、断ろうとしていたのに・・・

「その仕事、ヤマノさんに替わっていただくよう
私からお願いしてもいいですか?
今になって申し訳ありませんが、
私はやっぱり自信がないです。
ふくろう座の合間を縫ってというのはかなり厳しいです。
無理だと・・・」

事務所で、彼との仕事をなんとか断ろうとしていたとき、
いきなり目の前にその本人が現れた。

「サクラダさんですね、どうぞよろしくお願いします。」

なんて言って、握手を求めた。

3年ぶりに触れる、大きくて温かい手だったけど・・・
どういうつもりなの?

今頃・・・
なんなの?

私はこの3年間、
あなたという存在を自分の中から消し去ることに
こんなに必死だったというのに・・・

 

 

     。。。。。

私の“ピアノ伴奏者”という仕事は、
この3年のあいだにずいぶん安定していた。

かたっぱしからいろんなオーディションを受けたが、
結局大学の先輩から声がかかって始めたのは、
子ども向けのオペラの劇団との仕事。

やってみるととても肌に合っていた。
もうすぐ2年になる。

子どもから大人までの幅広い層をターゲットに
わかりやすくてユーモアのあるオペラを目指して上演する劇団だ。

子どもにわかりやすいと言っても、
その演技も音楽もレベルはかなり高くて固定ファンは多く
外国にも招かれて上演するほどだ。

去年はカナダに行ったが、今年の秋には韓国行きが決まっている。
私にとって新しいチャレンジだったが、
稽古場で汗を流しながら一緒に一つの物語を作り上げていく日々は、
オーケストラや合唱とはまた違う世界を見せてくれた。

私の演奏の他には効果音としてアフリカの民族楽器がみっつ。

それだけ。

特に奇をてらった仕掛けがあるわけじゃない。
観客数も、ちょうどいいのは700人くらい。
中ホール向き。

シンプルな舞台装置の上で、
観る人が想像力をふくらませながらストーリーに入りこんでいく。
700人の観客がぐいぐいと舞台に引き込まれていく空気を
体の右半分で感じながら1時間半の間ぶっ通しで弾き続ける。
役者は歌い、演じ続ける。

休憩なし。

一人一人が表情豊かに演技しながら歌い踊り、
私はその展開ひとつひとつに呼応する音を奏で続る。

ステージ上でみんなと不思議な一体感を感じながら
私はいつも、とても満ち足りた気持ちになった。

そして、そんな時間を積み重ねて、
一日のうちで、彼を思って苦しい時間が減っていることを、
ある日自覚した。

それは嬉しいことなのか、悲しいことなのか、
よくわからなかった。

でも、これから先少しずつ安らかになれる予感がしていた。

そんな毎日の中に・・・
突然彼は現れたのだ。

  。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

スタジオの重いドアを開けると、
彼はすでにピアノに向かっていた。
思ったとおりだ。

「遅れてすみません。」

「いや、遅れてないよ。
まだあと・・・2分・・・もある。」

「あ、そうですか。」

ため息をつきながら顔を上げた彼が
口だけで薄く笑った。

「もうこのくらいで許してくれない?」

「え?・・・・」

「頼むから、そのよそよそしい言い方はやめてくれよ。」

「・・・・」

「練習したいなんてウソなんだ。」

「え?・・・・」

「アキの伴奏は完璧で、僕には何も言うことはない。
ただ、練習って言わなきゃ二人きりで会えないから。」

「・・・・」

やめてほしい。
そんな声で私に話しかけないで。
いつもいつも私の胸を震わせたその声で。

やめて・・・

私を引き戻さないで・・・

私にとって音楽の世界は大切な居場所だったのに。
     なのに、君を失ってからもそこで生き続けることは     
     ただ拷問のようだったよ。

     そこでしか生きていけないのに・・・

     そこにいることが死ぬほど辛いなんて・・・

     音信不通のままに過ぎた3年の空白は、
     ただ空白なのではなかったよ。

     今日一日をやっと過ごして眠ったら、
     また明日目覚めなければならない。

     目覚めてしまったら
     また生きていかなければならないの。

     君のいない世界を・・・

     いっそ目覚めなければ、とても楽になれるのに。
     いつもそんなことを考えていたよ。

     ただ春の風が頬を撫でていっただけで、
     いつかの情景が鮮やかに蘇ってしまうことってあるよね。
     その苦しさに、いきなり道ばたにしゃがみこんだりしたよ。

     教会の鐘の音も、駅のホームのアナウンスも、
     公園で出会う犬も・・・・
     何を見ても、何を聞いても感じても・・・
     君を思い出しては唐突に涙がこぼれ、とまらなくなった。
     
     叫び出しそうで、口を押さえて一生懸命走ったよ。
     声を出して泣ける場所まで。
     

ただ私を見てるオンサム。

なんで・・・

何をしたい?

何を言いたい?

ただ沈黙のなかでみつめあってるなんて、
すごく変だ。

私は・・・

二人の間に置かれたピアノに守られるように距離をとり、
ボーッと彼を見ていた。

そう・・・

この人と過ごした日々があった。

たくさんの時を重ねて・・・
忘れたくても忘れられない、
たくさんの・・・
まぶしくて苦しくて、
直視できなかった記憶・・・

今、君を目の前にして、
あとからあとから溢れ出すのはなぜ?

    
     何度もタッチを直されて泣きそうになったショパン・・・

     連弾でピタッと合って弾き終わり、     
     その高揚感のまま長いキスをした練習室・・・

     夜中にデュエットしてアパートの人に怒鳴られ、     
     布団をかぶってクスクス笑いながら続きを歌ったアリア・・・     
     そのまま抱き合って朝を迎えた。

     「アキだけ音が微妙に下がってる」と何度も注意され、     
     むくれて帰ったアンサンブルの練習曲・・・

     拗ねた私の機嫌をとるために、     
     女の子に混じって並んで買ってきてくれたシュークリーム・・・

     観葉植物の死角に埋まって、     
     何度もキスしたカフェの席・・・

     高額のプレミアムチケットが手に入ってしまう君に連れられ・・・     
     初めてのオーストリア。
     
     初めてのドレス。     
     初めての、ニューイヤーコンサート。
     コンサートの興奮のままに二人だけでウィンナーワルツを踊り、     
     やがてタキシードとドレスを脱がせ合った、     
     ウイーンのホテルのゴージャスな部屋。
     

ほら、いくらでも・・・
あとからあとから溢れ出すのはなぜ?・・・

やめて・・・

     たくさんの音を重ね、時を重ねて過ごした日々があったね。

     君との思い出だらけのその場所に留まって、
     こんなに、こんなに耐えてきたよ・・・
     そしてやっと、一人で歩き始めたよ・・・

     なのに・・・

     君は私を、 
     どうしたいの?

叫び出しそうな気持ちを、
必死で押さえていた。

「ねぇアキ、僕はどうしても知りたいことがあるんだ。」

「何ですか?」

「はぁ・・・・
意地っ張りなのも変わっていないな。
どうしても敬語?
まあいいや、確かめたいことがあるんだ。
いきなり本題を訊きます。
あの時のこと。」

「・・・・・」

緊張する。

「どうして君は空港に来なかったの?」

「・・・・・」

「教えて。
そのあとも、ずっと僕からの連絡を無視し続けたね。
一度も電話に出なかった。
メールの返信もなかった。
手紙も航空券も何度も送ったのに。
全部封を開けずに送り返して・・・
なぜ?」

「・・・・・」

「ねえ、なぜ?・・・」

この人はいったい何を言ってるんだろう。

「なんでそんなこと平気で訊けるの?」

「・・・え?・・・」

「なんでそんなふうにとぼけられるの?」

「・・・え?・・・とぼけるって、何?・・・」

「『何?』って・・何?・・・
私のほうが訊きたいわ。
本気でとぼけてるなら、もっと罪が重いわ。」

「罪?・・・
とぼけてなんかない。どういうこと?
アキの言ってることがわからない。
ちゃんと教えて。」

もしかして、この人はおかしいんじゃないの?
自分がしたことをそっくりそのまま忘れてる?
こんなふうに天才な人には、そういうことってあるのかも。
自分にとって都合の悪い記憶は抹消されるような・・・

私だって持ちたいわ。
そんな便利な天才アタマ。

「アキ・・・
ぼくが君に何かをしたの?
それで君は僕のことを怒って、空港に来なかったの?
その後一切の連絡を絶ちたくなるような・・・
僕が何をしたの?
教えて、アキ。」

彼の顔があまりにも必死で、たじろいでしまう。

私が一方的に彼を責めるはずなのに、
どうしてこんなふうになってるの?
態勢を立て直さなきゃ。
私たちはもうすでに終わった遠い過去について
なにかを確認してる。

それだけなのだから。

この際だから思い切り憎まれ口をたたいて
さっさと終わりにしたい自分と、
もっとこのまま彼とこの場所にいたい自分が
胸の中でぐるぐる回っている。

「それってもしかして二股かけてた時の失敗を
3年たったらすっかり忘れてるとか?
だとしたら、ほんとに笑っちゃう。」

「アキ! お願い。僕にわかるように説明して。
君の言ってることがよくわからない。
それに、フタマタって・・・何だっけ?・・・」

「・・・・・」

そう言えばこの天才は、
初めから超天然でウソがつけないやつだった。
そして日本語がまだまだだった。
皮肉も、ちょっと婉曲な言い方も理解できなかった。

「二股っていうのはね・・・
はぁ・・・
あのメールみたいなことよ。」

「メール?」

「あなたが韓国に帰る日の朝の、あのメール・・・」

「僕が韓国に帰る日の?・・・」

「・・・・・」

「僕が?・・・・
僕が韓国に帰る日?・・・
その日?!」

いつもは小さめのやさしい目が思い切り大きく見開かれてる。
怖いくらいに。

「そうだけど・・・・」

「メールには、なんて書かれてた?」

「そんなこと、自分が一番よく知ってるじゃない。」

「知らないんだ。」

「え?・・・」

「あの日、夜遅くに僕のところに訪ねて来た人がいた。
僕はてっきり君だと思った。
卒業演奏会の打ち上げ、抜け出して来てくれたんだと思った。
ちょっと前に電話で『今日はもう会えない』っておやすみを言ったばかりなのに、
サプライズのつもりだったんだなって。
嬉しくて、慌ててドアを開けた。
そしたら・・・・」

「エリコだった?」

「そう・・・そうだ・・・」

「・・・・・」

「知ってたの?」

苦しくなってきた。
空気が薄くなってきたような感じ。
肩で息をする。

今日までずっともつれて固まったままだった糸が、突然ほぐれる気配。
一気に頭のてっぺんまで緊張する。

もしかして、私はとんでもない誤解の中で、
彼をなくしたと思いこんだ?

まだよくわからない。
この事態がのみこめない。
どうしていいかわからない。

「アキ、なんでエリコが来たって知ってるの?
エリコがそう言った?」

私は両腕を抱えるようにしてグランドピアノに寄りかかった。

「お願い。先にあなたの話、最後までして。」

「あぁ。最後まで話したら、アキもほんとのこと教えて。」

「うん。」

「彼女は朝までいた。」

「・・・・・」

「『一度だけでいいから私を抱いて』と言った。
『もう二度とわがまま言わない。あなたとアキの邪魔はしないから』って。」

「・・・・・・」

「僕はもちろん断った。」

ピアノに全体重を預けて、かろうじて立っていた。

「僕らは、そのまま眠らずに朝まで話していた。
追い返すことは簡単だったけど、そんなことはしたくなかったんだ。
君たちは卒業のあともコールアカデミアでメゾとアルトのパートリーダー同士。
うまくやっていかなきゃいけないと思ったから。
明け方、僕がちょっとまどろんだ間に彼女はいなくなってた。
携帯と一緒に。」

「あ・・・・携帯・・・・」

「彼女からなにかアクションがあったの?」

「メールが来た。」

「そうか、そうなのか・・・」

「あなたからだと思ったの。」

「彼女は、何を?・・・」

    。。。。。。。。。。。。。。

オンサムが帰る日の朝、私は彼の部屋に向かっていた。

前日は大学の卒業演奏会があり、彼は私の演奏を聴いたあと、
すぐに部屋に戻って帰国準備をしていた。

一大イベントで田舎から両親も出てきていたけど、
帰国する友人を見送るからと、早々にはとバス観光に送り出した。
彼の元へと心がはやっていた。

地下鉄の駅に降りて行こうとする時に入ったメール。
棒立ちのままどのくらい動けないでいただろう。

送信者は確かに彼、オンサムだった。

   “エリコ、ゆうべは来てくれてありがとう。
    ほんとに来てくれるなんて思っていなかったから、    
    とても嬉しかったよ。    
    忘れられない夜になったね。    
    アキのことは、すぐには無理だけど    
    できるだけ早くちゃんとケジメをつけようと思ってる。    
    だから僕を信じて待っていてほしい。    
    エリコ、愛してる。”

はじめはなんのことだかわからなかった。
なんども送信者の名前を確かめた。

そして、気づいた。

サクラダ アキ
ササキ エリコ

“アドレスを1行間違えたんだ・・・・”

そう思ってしまった。

地下鉄の入り口を塞いで棒立ちのまま、
たくさんの人と肩がぶつかった。
でも、どうしても動けなかった。

「なんだこれ・・・なんだこれ・・・なんだこれ・・・・」
声に出して言っていた。
呪文のように。

どこをどう歩いたかわからない。
もうとっくに昼を過ぎ、彼の搭乗時刻が迫っていた。

電話が鳴った。
彼からだった。
出なかった。

今度はメール。

     “アキ、なにかあった?
      今、どこ?”

何度も届いた。

     “アキ、電話ください。”

     “どうしたの?”

     “時間がなくなった。心配しています。”

     “アキ、連絡ください。     
      愛しています。”

春の嵐が吹く中を、暗くなるまでただ歩き続けていた。

   。。。。。。。。。。。。。。。。。。

私が全部話し終わるまで、
彼はただ黙って聞いていた。
じっと私を見つめたままで。

辛そうで・・・

でも、たくさんの思いを込めて私を見つめてることを感じる。
その視線が、苦しかった。

なんども目をそらしながらやっと話し終わると、
彼は少しうつむいて小さく息を吐いた。

「空港でアキを待っているとき、
エリコが携帯を返しに来た。
自分のとそっくりで間違えて持って帰ってしまったと。
アキにしか言っていなかった搭乗時間を知っていた。
メールの記録を読んだんだなと思った。」

「そうだったの・・・・」

「アキ、エリコとはなにもなかった。
ただ朝まで話をしただけだ。
そして、それっきりだ。
信じてくれる?」

「ええ。
でも、まだ頭が混乱して・・・
それに、もう3年も前のことね。」

「3年も?
僕には昨日のことみたいに感じるよ。
それに今、目の前にアキがいる。」

エリコはその後一度も練習に来ないまま合唱団コールアカデミアをやめた。
そして半年後には父親の会社の取引先の息子と結婚した。
エリコの結婚のおかげで父親の会社が持ち直したという噂だった。

その時のエリコの気持ちなんて知ったこっちゃない。
親のためにする結婚だったのかどうかもホントはわからない。
それで自暴自棄になったとか、
ほんとにオンサムのことが好きだったのかも・・・とか、
あれこれ推測なんかしたくない。

もう今は・・・
こんなふうにまたこの人に会えた。
この人がまだ私を思っていてくれた。
そして3年前のこの人を信じることができた。

それだけを・・・
胸に抱いていたい。

彼が私に手を伸ばす。
今にも倒れそうな私は長い腕に抱きとめられて、抗う力もない。
その大きな胸にもたれて、されるままになった。
彼の、オンサムの匂いを胸いっぱいに吸い込みながら。

耳元で、掠れた声がした。

「どうしてた?
この3年・・・
早くそれが聞きたかった。」

「あ・・・
サム・・・
あのね、私は・・・

ごめん・・・なさい・・・

混乱する頭と、ただ流れる涙。

「あぁ・・・
やっと名前を呼んでくれた。」

「・・ぁ・・・・」

「アキ・・・・
そんなことになっていたなんて、
ごめん。
知らなかったんだ。
君がこんなに辛い思いをしていたなんて。」

彼の日本語は、まぬけなイントネーション。
それだけで、正直モノ丸出しな感じがしてかわいいと思ってしまう。
そして、どうしても暖かな気持ちになってしまう。

ずるいな、サム・・・

私の・・サム・・・

「ごめん。あの時・・・
サムのこと信じ切れなくて・・・ごめん。」

「違うよ。僕がいけなかった。
ごめん。ごめん・・・
悲しかっただろ。
僕がもっとアキを探して・・・
ちゃんとアキに会って・・・
アキの話を聞いて・・・
アキの・・・」

いきなり彼の肩にぶら下がるようにして、
その厚みのある唇から『アキ』の2文字がこぼれた瞬間にキスをした。

一瞬驚いた彼が、次の瞬間笑顔になった。
白い歯がまぶしい。

「はぁーー」と長いため息と一緒に
またギューッと抱きしめた。

「会いたかったよ。
寂しくて、会いたくて・・・・
こんなふうに、もう一度アキを・・・・」

また腕に力が込もる。
私の髪に頬をあてている気配。
そしてまたため息が聞こえる。

「ほんとは日本に帰りたかった。
そしてアキを探したかった。
でも、僕は韓国で大変な仕事を始めてしまったんだ。」

「うん、すごくがんばったんだね。」

「あぁ。それに没頭することでアキを忘れられるかもしれないと思った。
でも、無理だった。」

「・・・・・・」

「手紙も航空券も送り返してきて・・・・
でも、その封筒の字がちゃんとアキのものだったから、
アキが生きてるんだなって安心した。」

「・・・・バカね・・・わたし・・・」

「早くこっちの仕事を軌道に乗せて、アキに会いに行きたかった。
でも、こんなに長くかかっちゃった。
もう、誰かと結婚してるかもしれないなと。」

「そんなわけないじゃない!
・・・そんなわけ・・・ないわ・・・」

彼が腕をゆるめ、私の頬を包んでじっとみつめた。
こんなに近い距離で。

「ほんとに・・・
アキだよね。」

「そうよ・・・アキです。
・・・サム・・・」

「よかった・・・」

今度は彼から・・・・
そっと触れるようなキスだった。

唇のあと、おでこにも、頬にも・・・
そう、いつもの彼のキスだった。

あぁ・・・
こんなことってあるの?

全身から力が抜けていく。
キスがどんどん深くなっていく。

彼にしがみついた。

「・・・・ここに、アキがいる。」

「・・・サム・・・・」

「ん・・・」

「サム・・・・」

「ん?・・・・」

「おかえりなさい。」

「ん・・・・ただいま・・・
今、帰ってきたよ。」

「アキ、やり直しだ。」

「ん?」

「時計は巻き戻せないけど、
でも・・・
はじめにもどりたい。
二人のはじめに。」

「うん時計は元に戻せない。
でも戻らなくていいわ。」

「なんで?・・・」

「だってあなたのいないこの3年で、
私はきっといい女になったもの。」

「そうなの?」

「えぇ、そうよ。
でも、いい女のままで初めに戻ろう。」

「da capo・・・だね。」

「えぇ、そうね。
・・・da capo・・・」

そう、だから初めて会ったみたいに私を見て。   
初めての時のようにキスをして。

初めてのように、
いっしょにピアノを弾いてちょうだい。

「私たちの初めての連弾、覚えてる?
それはバッハでもショパンでもなかったわ。」

「何?・・・」

「覚えてないの?」

「うん。」

「ダメね。」

「ごめん。」

「ふふ・・・
ドリカムよ。」

「え?・・・・」

「あなたが勝手に弾き始めて、
私はおもしろがってアレンジつけたの。」

「そう・・・」

「きっとあなたは初めてのキスで固まってた私を
ほぐそうとしたのね。」

「あ・・・そうだった・・・・・
それで、ほぐれた?」

「はい、まんまとほぐれました。ふふ・・・」

「アキ・・・・」

「なに?」

「今からそのシーン、やりなおしていい?」

「いいわよ。ダ・カーポだもん。」

「では、ダ・カーポでおねがいします。」

「はい。」

オンサムが、すぐにイントロを弾き始めた。

私もすぐにそれに合わせて、彼に音を重ねていく。

その和音の心地よさに目を閉じる。
こうしてたくさんの音を重ねてきた日々を、
もう忘れようとしなくていい。
全部覚えてていいんだ。

うれしい。

あぁ・・・・とても・・・

とても・・・

    うれしい・・・

途中いきなり歌い出した君。
よく覚えていたね、日本語の歌詞

     『♪・・・・

      ワァーターシヲ オロシタ アト 

      カドヲ マガルマデ ミオォクルト

      イーツモ ブレェキランプ 5カイ テンメツ

      アイシテル ノ サーイン~~・・・♪・』

「サム・・・」

「ん?・・・」

「ふふ・・・日本語、もっとヘタッピになった。」

「アキと話せなかったからだ。」


二人ともピアノを弾く手を止めないまま・・・

「またじょうずになりたい?」

「うん、とても。」

「私も。」

「ん?・・・」

「韓国の歌を歌えるようになりたいわ。」

「・・・・・」

彼が弾く手をとめた。

「・・・・・」

並んで座る肩を抱いて、
前を向いたままで彼が言った。

「もう離れない。
なにがあっても僕を信じて。」

目の前に開かれたままだった譜面に、
彼がなんの脈絡もなく書き込んだ。

     ・・・・ D.C.・・・・

こうしてまた
新しい二人の時を重ねていくんだね。

並んで座ったまま


私たちはまた、長い長いキスをした。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

この物語は、私が創作を書かせていただいているサイト
「Moonbow's Path  ~ silverblue's nest ~」( ○ttp://www.geocities.jp/silverblue_web/ )で初出の作品です。
 

 

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